作成日 : 2009-05-20 20:58|HIT : 6442
宋美齡

宋美齡-蒋介石の妻


宋美齡(1899~2003)は蒋介石の妻と同時に彼の立派な外交参謀でもある。 孫文の妻宋慶齡の妹で広東省文昌 (文昌: 今は海南省に属する)生まれである。 1899年 3月 23日上海で企業家と同時にキリスト信者である宋嘉樹の三人の娘の中で末っ子として生まれた。

彼女のお父さんである宋嘉樹は孫文の革命を追従して自分の家のすべての封建残在を無くして娘たちに現代式教育をさせた。 宋美齡は賢くて大胆で宋靄齡と同じく 5歳の時中西女塾に入学して寮生活をしたし、 1910年 11歳の時小さなお姉さん宋慶齡とともにアメリカへ留学を行った。 

ジョージア州ウィスルリ女子大学を卒業して 1920年中国に帰った以後彼女はキリスト教女青年会活動に参加した。 かつて映画審査委員会、童工委員会などで勤めたりした。
よく宋氏三人の姉妹のことを、 宋靄齡はお金を愛したし、 宋慶齡は祖国を愛したし、 宋美齡は権力を愛したと言う。 宋美齡が権力を愛したという証拠はまさに彼女が蒋介石と結婚した事を言える。

蒋介石は孫文の家をよく出入りしながら宋美齡を見て一目に惚れてしまったし、 宋美齡も彼の壮健で英俊した国民党将校蒋介石に相当な好感を持っていた。 
 
蒋介石はかつて孫文に宋美齡の姉の夫として自分が宋家にプロポーズ出来るように助けてくれるようにお願いをした。 しかし孫文は蒋介石が嫌いではなかったが蒋介石の頼みを断るしかなかった。 第一は彼が宋慶齡と結婚しながら紛乱を起こした宋氏家と関係があまり良くなかったし、 二番目は宋慶齡が蒋介石に極めてよくない印象を持ったからだった。

宋慶齡は軍人の蒋介石に極度の偏見を持っていた。 彼女は甚だしくは孫文と側近たちに、 "宋美齡が死ぬことを見ようとも蒋介石と結婚することを見たくはない。"と打ち明けたりした。 実は宋慶齡は蒋介石の年があまりにも多くて出身が卑賎だったからではなく蒋介石が孫文の意志と国民革命を逆らって民族分裂を助長したから結婚を反対したのである。 

当時に蒋介石は既に結婚をして妻を三つも置いた男だった。 それでも宋美齡が皆の予想を壊して蒋介石との結婚を敢行することができたところは皮肉としか言いようがなくもお姉さんたちの性格から受けた影響が大きかったようだ。 宋慶齡が全家族の反対を押し切って孫文と結婚をした時、 ただアメリカで留学していた宋美齡だけは宋慶齡の立場を理解してくれていた。 宋美齡はその誰よりも先にそういう宋慶齡が自分の結婚に同意してくれるので信じたが結果は正反対だった。 宋美齡は自分の境遇を理解してくれることができないお姉さんが恨めしかったが、彼女も周りの反対を押し切って結婚を敢行した。   
もし宋美齡の英雄崇拜が宋慶齡から始まったことなら、 宋靄齡の賢いリアリズム観点は宋美齡が結婚の障害要素をきれいに掃き出すことができるように手伝ってくれたと言えるでしょう。 当時の環境で宋靄齡は国民党が団結さえすれば中国の統一が成り立つことができるし、 そのようになるためにはただ軍人に頼らなければならないと思ったから宋美齡と蒋介石の結婚を肯定的な視覚で見た。 宋靄齡と彼女のご主人の孔祥煕の結合は中国の南北財閥勢力の連合だったし、 宋慶齡と孫文の結婚は宋氏家門と国民党の結合だった。

こういう時期に蒋介石のような軍人勢力が加勢したらこれ以上望むのがないということが宋靄齡の判断だったことである。 このような宋靄齡の力強い支持を土台で 1927年 12月 1日宋美齡は蒋介石と結婚式をあげた。 その後宋美齡はいつも蒋介石にしたがって戦地で通ったが政治的路線が違ったお姉さん宋慶齡とは不便な関係を維持するしかなかった。  

約 10年の間蒋介石と一緒に全国を歩き回りながら宋美齡の足跡が中国全域に着かない所がなかった。 宋美齡はいつも蒋介石の充実な外交顧問を引き受けながら欧米各国たちと外交関係を樹立して、 西洋学問に対するすぐれた識見で蒋介石の空軍建設を完璧に補佐した。 この外にも彼女は政治社会活動に幅広く参加して女性団体と児童福祉団体で団体長などを引き受けた。 
1936年 12月西安で蒋介石が張学良と楊虎城に監禁される事態が発生した時、 彼女は危険に処した蒋介石を救出するために直接西安に駆け付けて事態の平和的な解決を謀る果敢性を見せてくれた。 
抗日戦争時期に彼女は航空委員会秘書長を歴任したし、 1943年には蒋介石に付いてカイロ会談に参加して通訳を担当した。

1948年蒋介石の代わりをしてアメリカに渡って援助を求めたが、1949年蒋介石の国民党が毛沢東が導く共産党との覇権戦争で敗れて台湾に撤収すると、 アメリカに滞留していた彼女も 1950年 1月台湾に戻った。 この時覇権争いで失敗した蒋介石と宋美齡は非運の英雄楚覇王項羽と悲劇の女主人公虞姫と例えられた。
1950年代初は台湾の政局が一番複雑な時期だった。 もし宋美齡が卑怯な女人だったら彼女は決して台湾に入らなかったはずで、彼女は蒋介石と国民党のためにいつでも身をささげる覚悟が出来たので、危険を冒して台湾に渡ったのである。 宋美齡が単純に蒋介石の権力を欽慕して彼と結婚したと言ったら彼女のこのような行動はその何でも説明することができないだろう。
台湾で蒋介石と一緒に政権の混乱期を経験した後に彼らは家に映画館を設置しておいてよく映画を見ながら暫く平穏な家庭生活を送った。  
1974年国民党 10期 5中全会で宋美齡は '中山奨章'を受けた。 1975年 4月 5日蒋介石が病死するとその年 9月 17日宋美齡は病気を治療するためにアメリカに渡った。 彼女はアメリカの病院に入院して腰の手術を受けた。 その後何回も台湾に帰って継続的に少しずつアメリカに荷物を移した。 1991年彼女が台湾を完全に離れる時は 99個の箱を持って行ったと言う。
 
宋美齡は 1950年 1月アメリカから台湾に渡って1991年台湾を完全に離れるまで約 40余年間実際に台湾にいた期間はその半分もならない。 彼女はどうしてそのように未練が多い台湾という地を離れなければならなかっただろうか? その原因を推測して見れば次のようである。

第一、 台湾には彼女の親戚がいなかった。(彼女の親戚は皆アメリカに居た)
第二、アメリカで肺癌末期にあった甥の孔令侃と末年を一緒に送りたがった。
第三、蒋介石と一緒に居住した士林官邸は彼女が独身生活を送るにはあまりにもさびしくて静かだった。
第四、 自分の健康も良くなくて動くことができる時一時忙しくアメリカに渡った方が良いと思った。
第五、台湾の政治的雰囲気が彼女の心機を不便にさせた。

しかしどんな理由より彼女は自分の一生に決定的な変化を持って来てくれた第2の故郷アメリカで一日早く帰りたかったはずだ。
2003年アメリカ時間で 23日夜 11時 17分(北京時間 24日 11時 17分) 宋美齡はニューヨークで静かに世を去った。清朝末期、 民国時期、 軍閥混戦と日帝侵略を経って 2次世界大戦を経験して、 冷戦時代の到来と退出、 両岸関係の緊張解消などを目撃しながら 106年の歳月を暮したのだ。 19世紀に生まれて 20世紀を経って 21世紀に至るまで 3世紀を暮して来た彼女の胸につけている中国現代史の商魂は永遠に消されないだろう。 宋美齡の著書では ≪西安事変≫、 ≪中国の平和と戦争≫ などがある。

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