作成日 : 2009-05-19 23:05|HIT : 5279
段祺瑞

一世を風靡した北洋3傑の一人


段祺瑞は馮国璋、王士珍とともに北洋3傑と称えられる。
段祺瑞(1865~1936)は皖系軍閥の司令官で、本名は啓瑞、字は芝泉で、安徽省合肥の出身である。
1885年天津武備学堂の砲兵科に入学、1889年卒業後ドイツで軍事学を勉強して翌年に中国に帰って来た。1896年天津に行って新建陸軍砲隊長兼武衛右軍各学堂の総責任者を歴任した。1901年末袁世凱は直隷総督兼北洋大臣と昇進した。1903年清国の朝廷で軍事訓練所を設立すると袁世凱が拡大改編した北洋軍の重要な参謀になった。

1909年第6陣を引き受けてから翌年江北提督に昇進し、江蘇省清江に駐屯した。1911年武昌起義が勃発すると勅命を奉じて湖北に駆け付けて革命を押えた。南北会談期間の 1912年初には袁世凱の意向によって清朝廷に二度の電報を送って皇帝退位を督促した。3月に袁世凱は孫文から中華民国臨時大総統を受け継いだし、段祺瑞は陸軍総長に任命された。

1913年段祺瑞はしばらく代理国務総理を歴任している途中軍隊を動員して 2次革命を押えた。その後にまた代理湖北都督兼河南都督を歴任しながら、河南省、湖北省、安徽省などの軍隊を動員して白朗起義を押えた。

1915年 5月、彼は袁世凱の君主制還元に不満を抱いて病気を言い訳で辞職した。 袁世凱は 1916年 3月 22日に強力な反発にあたって洪憲君主制(洪憲: 袁世凱の年号)を取り消して段祺瑞を再登用して参謀総長に任命した。 4月に段祺瑞は徐世昌の代わりに国務卿兼陸軍総長を歴任した。6月に袁世凱が死亡すると黎元洪が総統職を受け継いだし、 段祺瑞は国務総理兼陸軍総長に任命されて北京政府の実権を掌握した。
 
北洋軍閥は徐徐に直系軍閥と皖系軍閥の二つに分裂されたし、 段祺瑞は皖系軍閥の司令官になった。 1917年ドイツに対する宣戦布告問題で衝突が生ずると黎元洪は段祺瑞の総理職を解任したし、 それで段祺瑞は各城の軍事長官たちを策動して黎元洪を打倒した。

張勛が黎元洪と段祺瑞の衝突を和解させるという名分で軍隊を連れて北京に進入して清の最終皇帝である溥儀の復位を試みた。 張勛の皇帝復位陰謀が破れて黎元洪は総統職で退いた。 段祺瑞は副総統馮国璋を総統代理に迎えて自分はまた総理を引き受けた。 しかし <臨時約法>と国会の復活を拒否した。 同年 9月孫文が広州で臨時約法を守護する軍事政府を立てた。 段祺瑞は武力統一政策を推進することに決めたが、 馮国璋が司令官である直系軍閥に止めされた。 11月に段祺瑞は強要によって国務総理と陸軍総長職を辞任した。 しかし段祺瑞の指示を受けた各城の軍事長官たちが馮国璋に圧力を行使することで、 段祺瑞はまた復位されて南方征伐に軍隊を動員した。 

北洋軍が湖南省衡陽を占領した後に直系軍閥将長呉佩孚が 1918年 8月休戦通信文を連続的に送って、 段祺瑞政府の親日売国政策を攻撃した。 こういうわけで直系軍閥と皖系軍閥の葛藤をもっと深くなった。 9月に馮国璋が総統代理職任期を終えて退くと、安福国会では徐世昌を総統と選出した。 段祺瑞も総理職で退いて参戦監督のみを専担した。

1920年 7月、 直系軍閥と皖系軍閥に戦争が起こった。 ここで皖系軍閥が敗れると段祺瑞は職位で退いて天津で移住した。 その後段祺瑞は奉系軍閥の張作霖、 南方の孫文と連合して直系軍閥の統治を反対した。

1924年 10月に至って奉系軍閥は馮玉祥の部隊と連合して直系軍閥を退けた。 段祺瑞は '中華民国臨時執政'に招待されたし、 彼は '善後会議'を開いて孫文が主張する国民会議を排斥した。
1926年 3月 18日、 段祺瑞は突然執政部護衛隊を教唆して北京の各界人士で構成された反帝国主義請願隊列を向けて銃撃を加えた。 この '3。 18 虐殺事件'で死傷者は 100余人もなった。
4月に段祺瑞はまた奉系、 直系軍閥と連合して馮玉祥の国民軍を攻撃しようとする陰謀を企んだが、 前もって漏洩することで東交民巷使管区に逃避した。 これによって呉佩孚、 張作霖の信任を失うようになると、 結局天真租界地に退いて逃避生活をしながら自号を正道居士だと言った。
1933年 2月段祺瑞は上海に移住してから、 1936年 11月 2日上海で病死した。 

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